害虫(2002)

主演宮崎あおい。母親の自殺未遂をきっかけに、ふつうの中学生活からドロップアウトしていく少女を演じた。
ちょっと想像していた映画とは違ったですね。その分、強烈なインパクトがあった。BGM「I don't know」に乗せて、主人公の非行が加速していく様子は見ていて痛々しくもあり、魅力的でもあり、不思議なシーンになっており、宮崎あおいならではと言えるのでは。主人公の「男」の引き付けっぷりも、宮崎あおいが演じたことで説得力が増した。何しろ彼女、あらゆる男性から性的対象として見られるのである。帰宅途中では見知らぬ学生風の男に「生理いつ?」とセクハラされたり、サラリーマン風のおっさんにあとをつけられ、ホテル街では若いサラリーマンに声をかけられ、学校では同級生から告白され(しかも別の女性徒から奪ったようにも見える)、家に戻れば母親の恋人に襲われ、実は小学校の担任からも寵愛されていたりと、「美人は得」なんてもんじゃなく、むしろ目を付けられる分、受難が待ちかまえているという方が正しい。主人公の名前はサチ子だが、「幸子」でないところがミソで、なんともいえぬ不幸せな未来を予感させる。宮崎は当時15歳。若々しいし、その張りつめ方が役柄にマッチしている。

サチ子のセリフの少なさもそうだけど、シーンのつなぎ方もかなり説明を短縮していて、一瞬何が起こったかわからないような作りになっている。それも手伝って、サチ子が何を考えているのか、また、何をしているのか、わからない。特に火炎瓶を使って放火しているシーンは、どこを放火しているのか判断できない。あれは自分の家なのか、あるいは友人の家なのか、まったく他人の家であってもおかしくはない。ただ、そのシーンのサチ子の表情の変化の移り変わりは非常に見事であった。表情で言えば、時折見せる本当の笑顔のシーンなんかは、すごくかわいくて、ああいう表情を周囲の大人は歪ませちゃいけない。

笑顔のことも踏まえて、女子中学生が、ふつうに生きていくことの困難さを凝縮しているように僕は受け取ったが、Wikipediaによると監督は「サチ子こそが害虫」と述べたという。僕は本編を見ながら、もう誰もその子に関わらないでやってくれと思って見ていたが、監督の意図としては、サチ子が周囲の人(男)を引き付けているのであって、彼らを破滅させているという構図を想定しているようだ。
その想定で見ると、説明のつくシーンも多い。友人の働きかけで学校に復帰したサチ子は、文化祭の出し物ではピアノ演奏を任され、ボーイフレンドもできる。その後、母親の恋人に襲われ、たまたま駆けつけた友人に「サチ子がかわいそう」と同情されてしまう。なるほど、たしかにレイプ未遂の被害にあうことも、同級生に同情されるのも、サチ子の心を砕いたかもしれない。しかし、そこで知的障害を持つキュウゾウに火炎瓶を投げさせたのは、紛れもなくサチ子の悪意によるものだ。キュウゾウを残しトラックをヒッチハイクして逃げるサチ子は、「本当はふつうに生きたい」少女ではない。ただ、小学校時代の担任を訪ねようとするところからは、踏みとどまろうという意志が読み取れた。揺れる彼女の心は、最後の最後で抵抗しないことを選択したが、それを、「社会や不運が彼女に選択させた」と見るか、「彼女が自ら進んで選択した」と見るかは、受け手の思想哲学によるだろう。
個人的に印象的だったのは、終盤でサチ子がヒッチハイクを乗り継いでいくシーン。サチ子はこの旅の間、いやな想いをすることなく目的地にたどり着けていて、トラックの運ちゃんとか、女性ドライバーはサチ子の事情に踏み込まず、善意で彼女を乗せているんですね。一見、世間の優しさみたいな、いいシーンに見えるんですが、結末から見れば、彼らの無関心な善意がサチ子を最終的には追いつめているとも言える。サチ子は、彼らによって運命の場所に運ばれてしまったわけです。責められるようなことではないのだけれど、意味深な場面のように感じました。
学生生活からのドロップアウトという題材から、野島伸司の「未成年」も思い出した。