月光 / 誉田哲也

「ジウ」「ストロベリーナイト」「疾風ガール」と読んできたが、誉田哲也の小説では、本作が一番読みやすく、力を感じた。社会的な問題提起をラストにしっかりと据えており、上で挙げた3作よりは読後に思うところがあった。そのラストのために、読み進めるのに苦痛を感じるほどの犯罪シーンが描写されており、またこれが圧倒的なリアリティを伴っていたことも、力を感じさせた(ただ、本当に読むのがつらいので、買うことを考えている人は、amazonレビューも参考にしてから購入して欲しい)。いまもどこかで、こんな犯罪が起きているのではないか。日常的に起きていることなのではないか。そう思わせるだけのリアリティがあった。
少年法で少年が守られることには、センセーショナルに報じられる少年事件が発生するたびに議論が起こるが、本作は、これが法律の問題ではなく、マスコミの問題であることを暗に示している。犯罪者が成人であれば、電波を使ってリークされた断片的な「犯人の供述」が垂れ流され、その一言一句に我々は怒りを覚えたり、衝撃を受けたりする。そして「高く吊せ」の大合唱がはじまる。知る権利を盾に、信憑性の極めてあやしい証言をお茶の間に届け、あっという間に消化して、翌日には新しい別の話題を、やはり垂れ流す。消化され続ける事件報道は、ふと気づくと、以前の犯人の供述はなかったことになっていたり、「これまでのまとめ」が作られる度に書き換えられたりする。

「犯罪事実は認めている。それ以上、犯罪者の言葉に耳を傾ける必要があるのか」
作中、このような趣旨の発言がある。すべてには同意しないし、耳を傾けるべき人はいなければならない。しかし、国民全体がそれを聴く必要はあるだろうか。犯罪者が語る動機や理屈は、分析して理解されたり、一部共感されたりはするだろう。しかし、納得はされないのではないか。犯罪者の動機や理屈が語られるとき、それはこれまで、どのように使われてきたか。犯罪者を異常な存在としてラベリングする以上の意味が、そこにあるといえるだろうか。

少年審判について、つっこみをいれておく。登場人物に、少年鑑別所に送致された未成年が登場するが、彼は無免許で、盗んだバイクで人をひき殺したにもかかわらず、「審判不開始」という終局決定を経て社会復帰している。この決定はまず、現実の社会ではありえないだろう。少年は両親がそろって自殺しており、それを目撃したという設定であるが、その時点で保護処分が下される可能性は低くないし、無免許、バイクの窃盗にのみならず、事故を起こし、人を殺している。少年の置かれている立場を鑑みれば、精神面でのケアは必須であり、保護者のいない社会に戻すことが不適当であると判断され、消極的にではあるが、少年院送致などの処分によって保護されるべき事例だと思う。